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首都圏の初夏。
夏は始まったばかりだと言うのに、まだまだ気温が上がりそうな予感がする。 出勤ラッシュ、人々が行き交う中、私もまた通学のため歩いていた。私の名前は|東条 美桜《とうじょう みお》、二十一歳。どこにでもいる普通の女子大学生だ。
あぁ、今日は昨日よりも暑い気がする。お化粧、崩れてないかな。
大学生になって自分を変えたいと思い、容姿やファッションを気にするようになった。中学、高校と周りの女の子は「可愛い」を求めて、努力をしているのに私はなにもしてこなかった。
友達は恋愛をして、相手の反応に浮き沈みする中、私はただ話を聞いているだけ。
私の家庭環境が影響しているからか、恋愛とはどんな気持ちになるのか、異性を「カッコ良い」と思うことはあるけれど「好き」の感情がわからない。 だけど、みんなが綺麗になっていくのを見て、私もキラキラしたい、輝きたいと思うようになった。友達には「大学デビューだね」なんてよく言われる。
今はまだ彼氏はいないし、好きな人もいない。 いつかマンガみたいな、ドキドキできる相手に出逢いたいと夢見ている状態だ。 そんな素敵な人に出逢って、自分を底から変えたいって思ってる。ふと時計を見ると、八時を数分すぎていた。
今日はいつもより早い電車に乗れた。大学に着いても、講義が始まるまで時間に余裕がありそう。
んっ?あれ、二限目はどんな講義だっけ?
課題とか、なにもなかったよね。 講義以外はアルバイトをする毎日だから、提出しなければならない課題を忘れていないか、なぜか急に不安になった。人混みを避け、スマートフォンで講義内容を確認する。
あぁ、やばい!こんな時に充電がなくなりそう。 昨日寝る前にきちんと充電できていなかったみたい。 大学に着くまで、スマホを見るのを控えよう。そうだ、印刷された紙の講義割がカバンの中に入っていたはず。
取り出そうとするも、クリアファイルがカバンのチャックに引っ掛かって取れない。 今朝までこんなことなかったのに……! 力任せに思いっきり引っ張る。 すると——。ああっ!!
カバンから取り出したクリアファイルの中身がアスファルトに広がる。
時間割をはじめ、自分がメモをした資料なども散乱し、思った以上に広範囲へ渡り道に散らばってしまった。人混みを避けていたとはいえ、今は通勤ラッシュの時間帯。駅から近い場所、迷惑そうに人々は避けていく。
「すみません……」
スマホに視点がいっているため、落ちている紙に気づかず踏みつけていく人もいる。
ああ、恥ずかしい……。
顔がぽっと熱くなる。
通り過ぎる人は多いのに、皆急いでいるためか誰一人として拾ってはくれない。 自業自得だ、邪魔になっていて申し訳ない。 早く拾わないと。 しかし、急ぎ通り過ぎる人たちの間をぬって拾うのには時間がかかった。ふと前を見ると、スーツに身を包んだ若い男性が手伝ってくれている。
「ありがとうございます」 良い人もいるんだ。若そうに見えるけど、会社員かな。 お互いにしゃがみながら、集めて行く。最後の一枚は彼が拾ってくれた。
恥ずかしくて、彼の顔を見ることができない。
だけど最後のお礼くらいはちゃんと伝えなきゃ。視線を合わせようと顔を上げ、声をかけた。 「すみません。ありがとうございました。助かりました」 彼と目が合う。 私の赤くなっている顔がさらに赤みを増す。「どういたしまして」
身長は180センチいかないくらいだろうか。
男性にしては少し長い髪、まつ毛は長く、髭は生えていない。白い肌。二十代前半に見える。細身なのに、貧弱さを感じさせない体型。強くはない香水の爽やかな香り。かっこ良くて、綺麗な人……。
見惚れてしまいそうになるも、我に返り
「あの、本当にありがとうございました!」 思いっきり頭を下げてしまった。 心臓が脈打っているのが自分でもわかる。そんな私を見て、彼は少しほほ笑み
「いえ、困っている時はお互いさまですから」 そう答えてくれた彼は、私の大学とは逆方向に歩いて行く。私は通行する人の妨げにならないよう道の端により、しばらく動けなかった。
ドクンドクン。まだ心臓の音が聞こえる。 これって、きっと……。恋愛をしたことがない私にはなかったはじめての感覚に戸惑う。一目惚れって、こんな感覚のことを言うのかな。
<蓮さんへ。今までありがとうございました。蓮さんと一緒にいた時間は夢のようでした。私が蓮さんに甘えすぎていて、いつも迷惑をかけてごめんなさい。私は蓮さんに何もしてあげられなかった。急にお別れすることになった理由を本当は知りたかった。私のダメなところを全部直すって言ったら、もっと一緒にいてくれましたか?最後まで迷惑をかけてごめんなさい。蓮さんは、もっと綺麗で頭も良くて、性格も良くて。そんな人が相応しいと思います。私なんかと付き合ってくれてありがとうございました。毎日が幸せでした。私は、まだ蓮さんのことが大好きです。でも、ちゃんとさよならをします。蓮さんが幸せでいられますように。> 彼女はどこも悪くないのに、なぜ最後までこんなにも優しい言葉をかけてくれるのだろう。嫌味の一つも書かれていない。 涙が頬を伝っていた。 十年以上だろうか、そのくらいぶりに流した涙だった。 愛する人を失う時、こんなにも辛いのか。はじめての経験だから、わからなかった。 美桜はもっと辛いはず。 こんなことを願うことは間違っているかもしれない。 俺はまだ彼女のことをーー。 それから二か月後ーー。「いらっしゃいませ。お客さま、何名様でしょうか?」 私は今、ファミリーレストランでアルバイトをしている。 育ててもらった伯母が病気で入院することになった。意識はあるが、長期間の入院になるらしい。 途中まで一緒に育った伯母の子は、実家からかなり遠くの大学に通学をしている。彼女は薬剤師になりたいという夢がある。私には絶対になりたいという夢がなかったから。彼女の変わりに一旦大学を休学し、地元へ帰ってきている。 退院がいつになるのかわからないから、東京のアパートは退去し、アルバイトも辞めた。 アルバイト先の店長からは「また帰ってきたら連絡して」と言われた。嬉しかったな。 大学にいつかは戻れるのかわからないけれど、せっかく勉強してきたから、退学ではなく休学という方法を選んだ。 親友の優菜とは遠距離になってからも毎日連絡を取り合っている。 伯母には「帰ってこなくてもいいわよ」なんて言われたけれど、入院していると必要なものや書かなければならない書類がある。伯母も離婚をしているから、あまり頼りにしている親類はいないのは知っていた。 伯母は私のことを本当の子どもではないのに、いなく
「あっ!」 すぐわかった。 スーツ姿の蓮さんがこっちに向かってくるのが見えた。 スマホを見ていて、私には気づいていないみたい。 久しぶりに見る蓮さん。 カッコいいな。 呑気かもしれないけど、そう思っちゃう。 蓮さんが私に気づいて、一瞬、歩くのが止まった。「美桜……?」「蓮さん、ごめんなさい。待ち伏せみたいなことして。こうでもしないと会えないから……」 頑張れ、私。「きちんとさよならを伝えに来ました。あと、蓮さんの家にある荷物を取りに来ました。今日はそれだけで帰るので安心してください」 しばらく沈黙が続く。 蓮さんは、なんて返事をしてくれるんだろう。「わかりました。ここでは人目につくので、荷物もありますし、部屋に来てください」「はい」 私は、彼のうしろをついていく。 蓮さんは、別れたつもりでいたのだろうか。 私が<さよなら>と言っても動揺した素振りさえしなかった。 少しでもいい、寂しそうな顔をしてほしかったな。 私の存在は彼にとって、小さなものだったの?「お邪魔します」 久しぶりに入る蓮さんの部屋。 綺麗に整えられた部屋、何も変わってはいなかった。 忙しさが別れの原因だったら、部屋は散らかっているよね。 女の人の物があったらどうしようとか思ったけど、そんな痕跡もない。 二人で座って過ごしたリビングのソファも、二人でご飯を食べたキッチン前の机も、もうここへ来ることがないと考えるとすごく寂しい。 さよならするって決めたのは私なのに。決心がついたと思ったのに、蓮さんを前にすると心が揺らぐ。 リビングで蓮さんと向き合う。 私のこと、こんなにしっかりと見てくれたのは久しぶりかも。「蓮さん?」「俺は……」 その時、彼のスマホが鳴った。「すみません。電話をしてきます」 そう言って彼は寝室ではなく。珍しくベランダに出て行った。 よほど私に聞かれたくない内容なのかな。 早く蓮さんの寝室にある私の荷物を整理して帰らなきゃ。 そう思い、寝室に入る。 ベッドも何も変わっていない。 ここで蓮さんに慰められたり、抱きしめられたり、キスされたり。 幸せだったな。 もう泣かないと決めたのに、涙が溢れる。 ダメだ、我慢我慢。 私は持ってきたボストンバックに自分の荷物を突っ込んだ。 蓮さんの部屋にあった私の
「はい」 正直に答えた。<じゃあ、見ましたか?> 何を……と言いかけたが、止めた。 「見ました。女の人と一緒にいるところと……。あと、タクシーに乗る前のことも……」 しばらく無言が続く。 「蓮さん、どうして?連絡を取れない理由も、会えない理由も。今日のことも……」<すみません。言えないんです。もし……。美桜がこの状況を耐えられないのであれば……> ドクンと心臓の音がした。 <別れましょう。それが美桜にとっては幸せかもしれません> 別れる……。 私は、今まで誰とも付き合ったことがなかった。 大好きな人との別れって、こうも突然に訪れるものなの? こんなに簡単に終ってしまうの? 蓮さんは、そんなに簡単に別れることができるの? 頭の中は聞きたいことでいっぱいなのに、蓮さんに聞くことができない。<もう話せる時間がありません。すみません。もし、最後に会った時の言葉を覚えていてくれるのであれば……待ってい……> 電話が途中で切れた。 すぐかけ直したが、再び彼に電話が繋がることはなかった。「別れる……」 涙が頬を伝う。 泣き崩れるしか私にはできない。 蓮さんが言いかけたこと、頭から離れない。 最後に会った時の言葉って、やっぱり「俺のことを信じてください」だよね? 私はどうすればいいのだろう。 別れたくない。でもこの状況がすごく辛い。 彼の言った通り、別れた方がいいの? 彼はさっきの言葉を伝えて、もう別れたつもりでいるの? 何もかもわからない。自分がどうしたいのかも。 それから二週間、三週間と日々が過ぎた。 蓮さんから来ない連絡を毎日待つ日々。 学校にいる時や、アルバイトをしている間だけは彼のことを少し忘れられた。 しかし、家に帰って一人で過ごしているとずっとスマホを見つめてしまう。 蓮さんが買ってくれたネックスレスは、蓮さんから<別れた方が幸せかもしれない>と言われた時、あの日からつけていない。 蓮さんがプレゼントしてくれたイルカのぬいぐるみは机の上にいる。「蓮さん、どうしちゃったんだろうね?」 イルカくんに話しかける寂しい毎日。 その時、スマホが鳴った。 電話だ。 着信先を見る。「えっ。なんだろう?」 何かあったのだろうか、見慣れない着信先の相手と話す。 「もしもし?」<久しぶり。
あんなところを見て、声をかけられない。 あまりのショックに周りにいる人を考えず、その場に座り込みそうになった。 キスくらいって考えなきゃ。子どもじゃないんだから。蓮さんが他の女の人とキスするなんて。やっぱりもう、私のことなんか好きじゃないのかな。彼女だと思っていないんだろうか。 「大丈夫ですか?」 フラフラしていたのかわかったのか、見知らぬ女の人に支えられた。「あっ、すみません」「おい、花音。なんでそんなに走って行くんだよ?」 女の人の彼氏?だろうか。「具合悪いんですか?大丈夫?」 花音と呼ばれた女の人が私を支えてくれている。「救急車呼ぶか?」 彼氏と思われる人がスマホを取り出す。「気が早いです。お姉さんから話を聞かないと」「あっ。そこまでではないので、大丈夫です。すみません。ありがとうございます。ちょっと精神的に具合が悪くて……」「そうなんですか……」 二人は、私を心配そうに見ている。 良い人たちだな。涙が出てくる。「えっ、どうしたの?私で良かったら、話を聞きますよ?同じ年くらいだし。ねっ?いいですよね?」「お前な、俺はいいけど。勝手に人の事情に突っ込んでいくなよ。迷惑かもしれないってことを考えろ」 この二人みたいに、言いたいことを言い合えることができたら、こんなことにならなかったかもしれない。 私がさっき彼を引き留めて、話を聞けていたら、もしかしたら誤解が解けたのかもしれない。「美桜!遅くなってごめん!混んでて」 優菜が走って来てくれた。「あれっ?どうしたの?」 優菜は状況が飲み込めず、困惑していた。「ちょっと、精神的に具合が悪くなっちゃって。花音さんが助けてくれたの」 優菜が私を支えてくれたため、花音さんは私から手を離す。「ありがとうございました」 二人に頭を下げ、お礼を伝える。「いえいえ。何もしてませんから。お身体、大切にしてくださいね」 そう言って二人は私たちから離れていく。 自然と彼氏さんが花音さんの手を取り、自分のポケットに入れたのが見えた。 いいな。羨ましい。 嫉妬とかじゃない。ただ単純に羨ましいと感じてしまっただけ。 私はもう蓮さんと手も繋げないのかな。 私のアパートに帰り、私の見たことを優菜に話した。 その時には落ち着くことができたから、泣くことは我慢した。「なにそれ
蓮さんと会えなくなって、二週間。 毎日やり取りをしていた連絡も、今は一切来なくなった。 私から送る連絡も既読にはなるが、返信がない。電話をかけても折り返しはない。「彼を信じる」とは伝えたけれど、理由もわからず、こんな状況のため落ち着くわけがない。大学がある日は優菜に毎日相談をしてしまう。「今日も連絡がなかったんだよね」「そっかぁ。どうしたんだろうね?黒崎さんもなんか事情があるのはわかるけどさ、一言教えてくれたって良くない?」 優菜の言葉に、私はなんて返事をしていいのかわからない。<蓮さんのことだから、大丈夫>って自信を持って言えればいいのに。 彼と繋がっていた毎日は、なんでもない平凡な日でも楽しく幸せに感じていたのに、正直今は不安という気持ちが一番だ。 蓮さんの声が聞きたい。 連絡が取れない理由を知りたい。 今日はアルバイトもお休みだし、一瞬でもいいから彼に会いたい。<少しだけでもいいので、会えませんか?> 我儘かもしれないが、そうメッセージを送ってしまった。「そのくらい、いいんじゃない?理由を教えてくれない蓮さんが悪いよ」 お昼くらいに送ったメッセージは、夕方になり講義が終わる頃になっても返信はない。「じゃあさ、直接家に行っちゃえば?黒崎さんからいつでも来ても良いって言われていたんでしょ?」 いつでも来てもいいと蓮さんには言われていたけれど。 今は状況が違うような気がして行動に移せない。「私も今日アルバイト休みだし、一緒に付き合うよ!黒崎さんに会いに行こう。親には遅くなるって連絡しとくから!」「えっ?本当?」 一人で行く勇気がなかった。 優菜が一緒なら心強い。「黒崎さん、帰り遅いんでしょ?じゃあさ、とりあえず近くのファミレスで時間を潰そうよ」「うん」 講義が終わり、蓮さんの家の近くのファミレスに移動をして時間を潰していた。 「ねえねえ。美桜、大丈夫?顔色悪いよ」 緊張と不安で押しつぶされそう。 前みたいに普通に話せるかな? 何年も会っていないわけではないけれど、いつもの自分でいられるだろうか。 そんなことを思いながら、ガラスに映る人々を見ていた。 ファミレスの席は窓際だった。 通り過ぎる男女がとても幸せそうに見える。 私もこの前まで、あんな感じだったのかな。蓮さんと並んでいた時、カップルに
メッセージを開くと<今日会いたい>という蓮さんからのメッセージだった。 いつもなら<今日、会えますか?>って連絡をしてくれる彼だったから<会いたい>普通のメッセージかもしれないのに、何かあったんじゃないのかって不安になる。 蓮さんが私のアパートに来てくれることになった。 私の部屋は狭いから、いつもお泊りする時は蓮さんの部屋だったけれど、蓮さんもこの部屋には何度か入ったことがある。 <着きました> メッセージを確認したすぐあと、アパートのインターホンが鳴る。 ドアを開けると、仕事終わりの蓮さんが立っていた。「お疲れ様です。どうぞ入ってください」 私が声をかけると、蓮さんは「お邪魔します」 いつもより声に元気がないような気がする。 チラッと蓮さんの顔を見ると、少し怒っている? 眉間にシワが寄っている気がした。 あまり見ない彼の表情と雰囲気。 仕事が忙しくて疲れているのかな。 昨日までは普通だったのに。「お疲れ様です。蓮さん、疲れてますか?」「大丈夫です。急にお邪魔してしまってすみません」 なぜだろう。なんだか嫌な予感がした。 今日、ずっと感じていた嫌なことを言われる気がして、肩に力が入る。「夕ご飯、食べましたか?何か作りましょうか?」 蓮さんの言葉を聞きたくなくて、私はいつも通りでいようと思い、彼の雰囲気を気にすることなく、そんなことをたずねてみた。「大丈夫です」 大丈夫って、どっちなんだろう。やっぱりいつもと違う。「どうしたんですか?蓮さん、体調とか。悪いですか?顔色も悪いような気がします」 彼の顔を覗き込む。「美桜は、何があっても俺を信じてくれますか?」「えっ?」 予想していなかった言葉に即答できない。 蓮さんを信じることなんて当たり前だけど。 何があってもって。理由を知りたい。「もちろんです。信じています」 蓮さんは真剣な表情で私を見つめるも、なぜか悲しそうな目をしている。「ありがとうございます」 その後、間があり「しばらく会えなくなるかもしれません。理由は言えないんです」 そう言って、私を抱きしめた。 会えなくなる?忙しいから?別れるわけではないよね? どうしてって言いたくなったけれど、理由は言えないって言われている。 いつもの蓮さんなら、きちんと説明してくれるのに。
彼に連れられて、寝室に入る。 寝室もシンプル、大きなベッドがあり、隣に本棚があるくらいだった。 ベッドの上に私が座ったのを確認した彼は「俺、リビングにいるので何かあったら呼んでくださいね。何も考えず、ゆっくり休んでください」 私の頭に手をおき、髪の毛を撫でてくれた。「おやすみなさい」 彼が離れようとしたとき「ありが……とう。黒崎さん」 自然と言葉が出てきた。まだかすれている。 彼はフッと笑い、優しい顔をし、部屋から出て行った。 黒崎さんの香水の匂いが微かに残るベッドで眠りにつく。 何も考えるな。そう自分に言い聞かせた結果、思った以上に早く眠りについてしまった。
私が落ち着くまで、黒崎さんは何も言わず抱きしめてくれた。 心が麻痺していなければ、好きな人に抱きしめられているということはすごく嬉しいことだと思う。 せっかく黒崎さんが抱きしめてくれたのに、ドキドキするという感覚がなかった。 でも、抱きしめられて落ち着くことができたのは間違いではない。 リビングに戻り、消毒をしてもらう。「い……!」 消毒は、想像以上に沁みた。 私が苦痛に歪む顔を見て「すみません。もうちょっと我慢してくださいね」 そう言いながら彼は、消毒と軟膏、ガーゼ、包帯などの処置を施す。 黒崎さんってどんな仕事してるんだろう。会社員っぽいけれど、医療職なのかな。
「か……」 帰りたくない、一人でいたくない、声があまり出ないおかげで彼に伝えられずに済んだ。 私は彼のワイシャツを掴んだままだ。 何をやっているんだろう。 彼は後ろを振り返り、わざと床に膝をついて私より目線を低くした。「美桜ちゃんが嫌じゃなかったら、今日は一緒にいませんか?」 本当は言って欲しかった言葉に心を打たれる。 コクっと頷いた。「良かった。俺も一人にしておけないと思っていたんですけど、逆に嫌なんじゃないかと思って。自信がなくて、引き止められませんでした。本当は一人にさせたくなかった」「必要なものとかありますか?買い物、一緒に行きましょうか?近くにディスカウントストア
黒崎さんのマンションに着き、タクシーを降りる。 タワーマンションと言うのだろうか、三十階以上はあるように見えた。 田舎から出てきた私にとっては、一度は住んでみたいと憧れを抱くような高層マンションだ。 こんなところに住める黒崎さんって、すごい人なのかな。 彼のうしろを歩き、マンションの中に入る。 暗証番号のようなものを彼が入力すると、エントランスのドアが開いた。 エントランスには管理室のようなところがあり、中は見えなかったが電気がついていた。 エレベーターに乗り、彼は二十五階のボタンを押す。 エレベーターを降りるとホテルのようなタイル張りの長い廊下が続いていた。 彼が